長年、義母が大嫌いでした。嫁いだ時から、考え方の違いにがくぜんとし、子供の教育面まで細かく口出しされ、「仲良くできるはずなどない」そう思っていました。
一緒にいるだけで、ふつふつと怒りが込み上げます。そんな時、教会のことを知り、信者籍を置きました。以来、どうにもならない感情を神に訴え、教えを必死で学び続ける毎日でした。
悲劇のヒロインぶっていた自分
神の教えには衝撃を受けました。ずっと「義母が私を苦しめている」と思っていましたが、私を苦しめていたのは、紛れもなく私自身だったのです。義母がなぜ厳しいのか、義母が歩んできた人生はどんなものだったのか…。考えようともせず、「家のためにこんなに頑張ってるのに!」と、悲劇のヒロインぶっていた私でした。
私にこそ、修正すべき点がある…。まず意識したのは、「笑顔」です。少しずつ、義母の厳しさの裏にある「思い」を受け止めるゆとりが芽生えてきました。
義母は若くして伴侶を失い、女手一つで4人の子供を育て上げた苦労人です。過酷な人生を歩んできたからこそ、心に強さがある…。そこに気付いた瞬間、「我慢する」感覚ではなく、自然と「歩み寄ろう」と思いました。まるで、朝日に照らされた雪だるまのように、「心の詰まり」が流れていく…。そんな感動を覚えたのです。
いつしか義母は、「大好きな存在」になっていました。晩年には、数年にわたって義母を介護し、悔いなく見送ることができたのです。夫に、「母さんを精いっぱい守ってくれてありがとう」と言われた時は、思わず涙がこぼれました。
毎日味わっている仕合せ感
もし、あの時神と出会っていなければ、私は義母を嫌い続けていたでしょう。神は、「変わるはずなどない」と思っていた私の心を、百八十度変えてくださったのです。
今、家族はもちろん、人とのたわいない触れ合いにもいとおしさを感じます。出会う人、出会う人が仕合せであってほしい…。そんな思いがいつも心にあるからか、周りからは、「あなたといると、福を頂けるようだ」と言われます。毎日が楽しくて仕方なく、夫に、「おまえを見てると、悩みがなさそうでうらやましいよ」と笑われるほどです。
さりげない触れ合い、平凡な日常の中で「楽しい」「うれしい」と感じる。この感覚こそが「仕合せ」であり、まさに「奇跡」だと、身をもって味わっています。