No. 1686

自分の“欠け”が見えて
乗り越えた「親子の危機」

(岩手県YK/60代女性/会社員) 

30代で離婚し、小さい娘たちを連れて実家に戻りました。温かく迎えてくれた両親には感謝しかなく、苦労を掛けた家族のために「何でもしてあげたい!」。そう思い、仕事も家事も必死にやってきました。いつしか染み付いた「私がやらなくちゃ」の気持ち。それは、2人の娘が結婚した後も変わらず、父母や長女家族と暮らす、4世代7人の大所帯でも頑張り続けていたのです。 

「過ぎていた」娘への関わり方

でも実際は、仕事で手いっぱい。その上、優しい母がショートステイで不在がちになってから、どんどん家族への不満が膨らんでいきました。「何で、私だけがこんなに忙しいの?」「どうして手伝ってくれないの?」。仕事で大変な思いをしている娘の気持ちに気付きもしないで、売り言葉に買い言葉の日々。けんかが絶えず、気付いたら心の距離ができていました。会話に入ろうとしても、「ばばは、いいから」。部屋で一人になると、「私は邪魔なんだ」と涙があふれます。どうすれば変われるのか。何か気付きたい…と教会図書を読むうちに見えたのは、家族に求めてばかりの自分でした。 

「また、だらだらして!」「そんな嫌そうに手伝ってもらっても…」。娘が手伝いをしてもしなくても、私の心に芽生える不満の数々。しかも、無理をしてでも、いつもどおりの家事をしようとして、ますますゆとりを欠く悪循環。悶々(もんもん)とする中で、ふと神の教えを思い出しました。「大切なのは、何をしたかではなく、どんな心でしたか」。家族に喜ばれるのがうれしくて、頑張っていたはずなのに…。いつしか、義務感や「してあげている」という自己満足になってしまっていたのです。 

さらに、育児にも、夫婦の話にも首を突っ込み、「私が何とかしよう」としていたことも反省。娘は、立派に家庭を築いているのに、いつまでも“子供”のつもりで口を出すのは、単なる出しゃばりでした。神示にあったのは、まさに私の姿だったのです。 

「求め過ぎない」
    「言い過ぎない」 
         「動き過ぎない」
     過ぎる思いは 縁を断ち切る 

『真実の光・神示 平成17年版』10ページ 

接し方の変化で、家中が温かく

思えば、娘夫婦はとっても仲良し。私が口を出さずとも、2人がしっかり話し合うほど、家族はまとまります。祖母である私には「見守る心」が必要と、神の教えで学んだとおりでした。母がしてくれたように、娘たちの心を大切にしながら、温かく関わっていこうと決意。以来、少しずつ会話が戻ってきた我が家です。けんかがなくなり、夕飯を食べながら、「おいしい」「ありがとう」「おばあちゃん、また作って」とみんなが笑顔です。家事も、無理せず、ゆったり取り組んでいます。そうしたら、「お風呂洗ったよ」「洗濯物、畳んだよ」と声が掛かるから不思議。家族の思いやりを感じて、心がほんわか温まります。 

娘との忘れられない会話があります。「仕事でいっぱいいっぱいで、すぐに反抗的になって、ごめん」と言うので、私も素直な気持ちを伝えました。「お母さんこそ、善かれと思って言い過ぎてたね。ごめんね」。心が通い合うやりとりは、私の宝物です。 

ぶつかることもある半面、分かり合えることがたくさんある、家族の存在。特に我が家は、うれしさも、楽しさも7人分。あらためて仕合せをかみしめています。ほんのわずかな気付きで、こんなに毎日が変わるなんて…。これからもっと自分の生き方を見詰め、高めたい。そうして、家族みんなの心が安らぐ家庭を築いていきます。

家族で「教え」を学び
   「真理」のある家庭に 
         身を置くことで  
  人は皆 
   「分」 立場をわきまえた
           関わりが持てる
 「和のある家庭」の姿が ここにある
「教え」を学び 
  「真理」に生きる
       努力を欠いてはいけない
 「心の姿」に映るまで 
  「分」に重なる「心」を求めて  
            祈願を重ねる
 自然と家族に思い(愛情)が向かい 
            会話も深まる

『真実の光・神示 令和3年版』115ページ(中略あり)