(神総本部MI/70代女性)
1年ほど前のことです。帰宅後、手を消毒していると、飛沫(ひまつ)が目に入った気がしました。気のせいかもしれません。でも、「何かあってもいけないし…」と思い、念のため、かかりつけの眼科に向かったのです。
不安を上回った感謝心
診察を受けて驚きました。消毒液による炎症はないけれど、「急性緑内障の疑いがある」と言われたからです。「どんな診断も受け止められるように…」と、祈願しながら受けた検査。結果は、「今夜失明してもおかしくないほど危険な状態」でした。それを聞き、動揺がなかったわけではありません。しかし、自覚症状もない中で、病を見つけていただいた感謝が上回り、「神が心の動きを導いてくださった」と思えてなりませんでした。医師にも、「消毒液が目に入って良かったです」と伝えたほどです。
手術の予約は2週間先までいっぱいだったものの、「この人は一刻を争うから」というご配慮で、診療後に手術をしていただけることに。同居の弟に事の次第を報告すると、私を案じながらも、「お守りいただいたね!」と言ってくれました。「神は隙あらば“救おう”としてくださるね」「すごいね!」。そうした会話で盛り上がり、ご守護の中という安心感に包まれて、無事に手術を終えることができたのです。
あらためて胸に迫った神の愛
術後の経過は順調で、1年以上たった今も、何も異常はありません。しかしつい最近になって、はっと気付いたことがありました。祖母が、私と同じ年に、同じ病気で両目を失明していたのです。もし消毒液の一件がなかったら…。「眼科に行こう」と心が動かなかったら…。きっと私も、そうなっていたのだろうと思います。受け継がれる「実体」の怖さ。そして、そこから何としても「救おう」としてくださる神の愛。あらためて、その深さを感じました。
常に心を磨き続けて
思えば、信者となる前の私は、「自分は間違っていない」という気持ちが強く、それをそのまま相手にぶつけていました。「相手がつぶれてしまう。正論にも限度があるよ」とたしなめられても、感情を抑えられなかったのです。それが、神の教えを学ぶ中で、人と和を持って生きる大切さがつかめてきました。自然と、「まあいっか」「今言うべきことじゃないかも…」と思えて、一呼吸置けるようにもなりました。
今は、人間関係が驚くほどスムーズで、友人も増え、毎日が本当に楽しいです。「教えに生きよう」とする思いを、神はいつもご覧になっていて、心の動きを守り、導いてくださっている。今回の出来事を通して、そう確信しています。