職員になって初めて迎えた誕生日の朝。「また一つ、年を重ねることができました」と、神に御礼申し上げました。
まだ、携帯電話も普及していない時代のことです。しかも、親元を離れて一人きり。ご挨拶後、ふと、「きょうが私の誕生日って、誰も知らないんだよな」という思いがよぎりました。
全てを見通される神の愛
そんな気持ちはあっという間に忘れ、夢中で業務に就いていたその日。日中、後ろから「あ、会えた!」と、明るい声が掛かりました。私たち家族に、神のご存在を教えてくださった方でした。その方は、「これね、何でか無性にあげたくなって…。『受け取れません』なんて言わないでね」と、私に小さな包みを握らせてくれました。思わず、「私…、きょう、誕生日なんです」と伝えると、「え~、不思議。…きっと、これは供丸姫先生からね。私、使っていただけたんだわ」と。私以上に驚き、喜ばれていたその姿を、今もよく覚えています。
「偶然」「たまたま」という言葉で、終わらせる人もいるでしょう。でも私には、全てを見通される神が、「いつも寄り添っていますよ。頑張って」と、駆け出しの職員だった私の心を、温かく包み込んでくださったのだと、思えてならないのです。
お計らいは思いも寄らない形で
あれから30年。信者さんお一人お一人が、神との絆を深めてほしい…。そのために、どう関われるだろうか…。そうした思いで過ごす日々の中で、「神に使っていただく喜び」を、私もたくさん味わわせていただいています。
ある偉光会館での話です。ご家族と共に、一つ一つ教えの理解を深めてきた方がいました。私も「この方が一歩前進できるように…」という思いで、幾度となく接点を重ねてきたのです。少しずつ心を高めていかれたその方は、係になり、ついには、式典の代表挨拶をされることに。それが公になったとき、施設管理の職員から声が掛かりました。
実は、「偉光会館の改築に向けて、開所時に関わっていたこの方と、コンタクトを取りたいと思っていた」と言うのです。神の館に関わることは、技術だけでなく、神への「真心」が不可欠です。偉光会館の改築というタイミングに、この方の心の高まりも重なった不思議。実在する神のお計らいの深さと、そこに関わらせていただけた喜びで、心が震える思いでした。
30年前に耳にした、「私、使っていただけたんだわ」の言葉。シチュエーションは違っても、これからも神魂に使っていただける人間であるように、心を磨き続けていきます。