神に心が届く感動
「神の教えを学ぶ」…信者になった頃は、単に「良い教え」「心が洗われる」止まり。浅瀬を歩く自分には、教えの深さが見えず、「信者はずっと学ぶだけ?」という疑問さえ生まれました。
素直な私は、疑問をそのまま祈願。すると、信者になった時のことを思い出したのです。「神示教会は“心が変わる所”」と言われ、「心揺れ動く自分を乗り越えたい」と思った当時の私。元には戻りたくない…だからやっぱり学び続けよう!
でも、感情が湧き上がる瞬間に祈願するなど至難の業です。「心は一瞬で動くから、祈願する隙間がありません。そんな暇なく、感情のまま反応してしまいます」毎日毎日、神に訴え続けました。そんなある日、波立つ感情を、相手でなく神に語り掛けている自分を見つけ、大興奮。「この感覚だ!」「祈願が神に届いている!」「神様はすぐそばにいてくださっている!」と、神の実在を体感できたのです。
神に向ける素直さがあれば、よちよち歩きの信者なりに感じられる神の実在…。その後も、教えを学んで祈願すると、必ず答えが戻ってきて、神との心の距離がどんどん近づいていきました。
救世の手先を務めたい!
あの日から数十年。今、救世に不要な“自我”がそぎ落とされていることに、神の実在を感じます。「神に仕え、救世の手先を務めたい」。その思いは、年を経るごとに強くなっていくばかりです。
行事の原稿は、仲間と打合せをしながら作ります。その時、私が最も大切にしているのが、ご神前での祈願です。神がいられる御場所に座し、頭(こうべ)を垂れ、「神魂が信者さんに伝えたいことを、表現させてください」と一心に語ります。不思議な感覚になり、頭に、あの事、この事…と浮かんでくるのです。
行事後、「あの内容が心に残った」と声が届くと、“やっぱり自分ではない” “神に使っていただけた”とうれしく思います。
一生をかけても味わいきれないほど大きな力を秘めている、私たちの運命。神魂に重なると、使いきれていなかった運命の力もたくさん引き出されて、信者さんを包み込んでいくことを実感します。
神を映せる人が生まれ育って…
先日、佐賀偉光会館の開所記念行事に出張した時、ある男性信者さんが語ってくれました。「1年余り、遠い偉光会館に通った。改築に向ける神示をじっくり読んで過ごした。今、神示は本当に予言だと分かる。そして自分がそこに重なる心になれたことが、とてもうれしい」と。神示への深い敬いから、神の実在が伝わってきました。神と重なり、神を映せる人が、一人、また一人と生まれ育っていることに胸が躍ります。
「神の実在」は、誰でも必ず感じられます! 全ての人が、自信と喜びを持って信者の道を歩めるように、関わり伝えていきたい。そう願ってやみません。