第13回 内なる自然のままに生きる

社会に存在する二つの「関係」

私たちは、他の動物と異なり、社会をつくって生活する歴史を、数万年にもわたって繰り返してきました。中国の黄河、インドのインダス川、イラクのチグリス・ユーフラテス川、エジプトのナイル川など、大河の流域には、文明発祥の地がいくつかありますが、どの地においても、人々は社会をつくり、それを中心に生活をしていました。「人間は、社会的動物である」との言葉どおり、私たちにとって、社会は不可欠なものなのです。

社会を中心とした生活とは、単に、社会で日常を営んでいる、というだけでなく、ある二つの「関係」によって維持される生活と言えます。その一つは、「人」と「人」との相互のつながり、つまり人間関係です。多数の人々によって成り立っている社会において、これは基本的な要素です。そして、もう一つは、自然からもたらされる、衣食住に必要な「物」の活用、つまり利用関係です。共同生活の場である社会には、衣食住の資材が自然と集まり、そこに利用関係が生まれます。このように、社会は、私たちが生きる上で欠くことのできない、「人間関係」と「利用関係」、この二つの「関係」を提供してくれる、掛け替えのない存在なのです。

 

人は必ず人とつながる

「人間関係」について、さらに深めてみましょう。人類の歴史で一貫しているのは、私たち人間は、他の「人」と強いつながりを持ち、相互に影響し合いながら長い年月を生きてきたということです。周囲から影響されることなく自分の信念を貫く人や、その生きざまを、「孤高の人」「独立独歩」などと表現しますが、それを実際に行うのは、非常に困難なことと思われます。

なぜなら、「人」とのつながりは、衣食住といった日常の営みだけではなく、人間の存在という、最も基本的で本質的なレベルに関わっているからです。例えば、人間の存在の始まりは出生ですが、それは、父と母、2人の「人」のつながりによってもたらされます。誰もが、この生物的、遺伝的なつながりの下に誕生し、生涯、さまざまな「人」とのつながりで満たされていきます。生後間もない赤子から成人に至るまで、あるいはその後も、家庭、学校、企業など、社会に存在するさまざまなシステムで教育を受けますが、その担い手は、両親をはじめとした「人」です。文字やその他の媒体から情報を得るときも、そこには、発信する「人」とのつながりがあります。そのように、多くのつながりの中で多様に学び、自己を形成して人生を歩んでいるのです。つまり、生きる過程において、私たちが「人」から離れて孤立するということはないのです。

 

「物」の備蓄がもたらした効果

続いて、「利用関係」はどうでしょうか。社会には、衣食住に必要な「物」が備蓄されます。備蓄できることが人間にもたらした効果は、想像以上のものがあります。

歴史を振り返ると、「物」の中心を占めていたのは、農業と牧畜から得られる食料です。農業の起源は、牧畜よりはるか昔ですが、牧畜の歴史も決して浅くはありません。ヤギや羊は9000年ほど前に家畜化され、それから1000年ないし2000年ほど後に牛や豚が、さらにそれから約3000年後に馬が家畜となったといわれています。農業と牧畜の開始は、私たちの生活に画期的な変化をもたらしたのです。人類は、食料を大量に入手し、さらに備蓄できるようになり、長い間苦しめられてきた飢餓から解放されました。豊かな生活へと前進を始め、文明の誕生や、国家の形成へとつながっていきました。

また、牧畜に伴って家畜の飼育が始まったことで、労働や運搬に家畜を利用する道も開かれました。これにより、遠距離の貿易や広範囲の戦争、あるいは、遠隔地の開拓まで可能となったのです。当然、社会の生産力や消費力も高まっていったことは、言うまでもありません。 このように見ると、「人」のつながりに比べて、「物」の備蓄は、かなり直接的に社会の構造に変革をもたらし、その機能を向上させる効果があったと言えるでしょう。

 

あるがままへの回帰

人間は、そもそも一人で生存できる生き物ではありません。「人」とのつながりから存在するための基盤を得て、生きるすべも学ばなければなりません。また、肉体を維持するためには、食物をはじめとする「物」を体に取り入れる必要もあります。実はこれが、人間の中の「自然」とも言うべき性質なのです。

歴史を通して、私たちは常に社会をつくり、そこで「人」とのつながりを大切にし、備蓄されている「物」を尊重してきました。それは、計算し、計画して行ってきたのではなく、人間の中の「自然」が、必要に応じて計らってきたことなのだと思います。

この世に存在する万物について、いろいろな考え方がありますが、その中に、人間を全ての生物の最高位と捉え、「魚、鳥、地に動くあらゆる生き物、植物は、食物として、全て人間に与える」と説く教えがあります。この教えによれば、社会に存在する全ての「物」は、人間が自由に享受したり処分したりできるということです。しかし、人間の自由を、果たしてそこまで広げてよいものなのでしょうか。

人は誰もが人とのつながりの中で生きている、という神の教えで考えるならば、あるがままの自然の姿で生きることが大切なのではないかと思います。ですから、私たちの外にある「物」を支配するのではなく、自分自身も内部に「自然」を備えた存在であることを認識し、あるがままの自分を尊重することが望ましいと考えています。

略歴
東京大学法学部卒業。同大学大学院修了。
平成15年から平成18年まで日本大学法学部法学部長、平成18年から平成19年まで同大学副総長を務める。著書『刑法総論』『刑法各論』ほか。

 

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