第15回 地理的条件がもたらすもの

現在の国際関係

2022年8月15日は、77回目の終戦記念日でした。この終戦で世界の平和が実現したように見えました。ところが、その後もやはりさまざまなことが起こりました。戦時下では疎開生活や空襲を経験し、小学校入学前に終戦を迎えた私の世代にとっては、今日のように健康に生活できるだけでも、感慨に値するように感じています。

最近の国際情勢を見ると、大戦後に全世界が掲げた国連憲章を基本とする平和への志向など、すっかり希薄化してしまっているように思えます。日頃話題になることが多くなくとも、実は大小さまざまな対立がそこかしこに潜んでいるようです。中でも、自由と民主主義を重んじる先進7カ国、およびEU加盟国と、ロシア・中国・イランといった一群の国家との対立は、今までになく厳しく、鮮明になっていると言ってよいでしょう。

 

ウクライナ侵攻と地政学

2022年になって、ウクライナへの軍事侵攻が、ロシアによって、突然、かつ一方的に開始されました。なぜ、このようなことが行われたのでしょうか。

それは、対立する国際情勢の中における、政治的に必要とされるジェスチャーなのかもしれません。しかし、根底に、別の理由もあると思われます。それは、ロシアの軍事的、経済的な防衛や維持の上で、ウクライナが持つ地理的な重要性、いわゆる地政学的な面での、ウクライナの価値の高さです。

国家には、領土が伴います。そして、領土は、自然の地理的条件から免れることはできません。国家は、運営の理念や思想がどうであれ、領土の地理的条件の中で、防衛や維持を検討することを不可欠とします。こうした地理的条件下での外交、軍事政策の関係を検討する学問を、地政学と呼んでいます。

ウクライナは、ロシアの地政学からすると、EU勢力から自国を守る緩衝地帯として、どうしても確保しておきたい重要な場所なのです。ロシア帝国やソ連の時代には、その国土の一部だったのが、ウクライナです。そのため、ウクライナの東部地域には、現在もロシア系住民が多く住んでいます。

軍事侵攻の背景には、かつて自国の一部であったという認識も、プーチン大統領には強くあるのでしょう。そうした考え方により、ウクライナ国民に与える被害を考慮することもなく、やや打算的に侵攻が決断されました。これは、地政学的判断の乱用と言ってよいでしょう。

 

朝鮮戦争の前例

72年前の1950年から約3年間、朝鮮半島で戦争がありました。朝鮮戦争です。この戦争も、ウクライナ侵攻と同じく打算的な地政学的判断によって勃発したものです。

朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国は、半島を二分する形で併存する不安定な状況にあったものの、独自の動機や決断で開戦に至ったわけではありませんでした。当時のソ連とアメリカの厳しい冷戦構造が、両国の対立を激化させ、生じた戦争なのです。実際には、朝鮮民主主義人民共和国側に中華人民共和国が、大韓民国側にはアメリカを主流とする国連軍が参加し、実態は中華人民共和国と国連、ないし米軍との戦いであったのです。

地政学的に考えれば、当事者とされる朝鮮民主主義人民共和国や大韓民国に戦争遂行による利益があったわけではなく、武器や兵員を動員し続けた、中華人民共和国や、米軍、ないし国連軍にこそ、戦争を遂行する理由が所在したのです。

鍵は、朝鮮半島が中国やロシアに近接しているという地理的特徴にあります。この半島に民主主義国家があるか、共産主義国家のみが存在するかは、太平洋をめぐる極東の地政学上、実に大きな差になるからです。その地政学の見込みが、無残にも、戦死者300万人を超える戦争をもたらしました。

 

地政学から学ぶべきこと

地政学の考え方には、学ぶべき点もあります。それは、国家を運営する上で、領土の地理、地形、その他の自然的な条件を大切にすべきであるというところです。領土は、国家にとって不可欠であるとともに、自然そのものである以上、当然の要請とも言えます。

現実的に見て、国家の運営や管理には、思想や理念も大切ですが、国の実態を見詰め、正しく認識することが欠かせません。地政学は、国家の運営や管理方法を教えてくれる大切な視点です。そして、同様にこの視点は、自然と深い関わりのある領域、例えば、人間の営みに不可欠なものでもあります。

国家は領土を持たなくてはなりませんが、それは制度や定義での要件に過ぎません。その要件を通じてのみ、自然と関係しています。あくまでも、それだけにとどまります。

それに対して人間は、自然を自分の一部とし、自然の中で生きる存在です。生物学で表現すると、発生や細胞分裂をする時点で、既に、人間は自然そのものの存在とも言えます。自然との交わりは、国家よりはるかに本質的なものでもあります。ですから、地政学が国の管理や運営において重要なように、人間は、生きる上で、周囲の自然を深く認識し、尊重することを忘れてはならないと思います。

神の教えの中には、私たちが時に自然の摂理の中に生かされている事実を忘れ、自然の営みに逆らうことへの戒めがあります。そのことを私たちは決して忘れることなく、生きていく必要があるでしょう。

略歴
東京大学法学部卒業。同大学大学院修了。
平成15年から平成18年まで日本大学法学部法学部長、平成18年から平成19年まで同大学副総長を務める。著書『刑法総論』『刑法各論』ほか。

 

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