「使者 供丸斎」誕生

咽喉がんの苦しみから、神の力で救われた供丸斎先生は、神が言い残されたお言葉を信じて、神の御名(おんな)を唱え続けられました。昼夜を分かたず、ひたすら御名を唱えるほど、強い信念をお持ちの供丸斎先生でした。
それから2年、昭和23年9月23日正10時、神が再び目の前に立たれました。「そちが日々すがっている大山命である。きょうよりそちを『使者』として、神の力を授けるほどに、神の力を受けよ。よって、大衆を救助せよ」と。以来、供丸斎先生は、神から学問を受け、「使者」として力を付けられていったのです。

道を守る姿勢を自ら示されて

神から「使者」の任を受け、神示教会を開設されても、公衆浴場は継続。供丸斎先生は、番台に座り、来る客、来る客の顔をご覧になっては、ふびんなものを見て取ると、「あなたは、こうなるから、こうするとよい」と助言を与え、半紙を短冊に切り、筆で神の御名を書いてお渡しに。「これを張って、毎日神の御名を唱え、お願いしてごらん。必ず仕合せになれるから…」と伝えていかれました。

神の力に吸い寄せられるように、人の口から口へと広がり、信者が増えていきました。やがて、行事ともなれば、会場に入れないほどに。周辺の道路にあふれた人々のために、スピーカーを出しての行事。そのような時、供丸斎先生は、「ご近所の皆さまには、朝早くからご迷惑を掛けますことをおわびいたします」と挨拶されて、ご講話を始められました。道を守る大切さを説かれる供丸斎先生は、いつもご自身でも道を守る生き方をされていたのです。

全く無欲で、実に簡素な生活を

供丸斎先生は、最初から最後まで、分以上のものを求めることはなく、実に簡素な生活を送られました。
祭典行事にご出場の供丸斎先生。どこからお出ましになり、下がられるのか、じっと見ていた人々は驚きました。それは、古びた木造アパートの2階の一室だったからです。小さな扉が開くと、急な鉄の階段を、手すりにつかまりながら、一段一段下りられる供丸斎先生。そのアパートの六畳間には、座り机が一つ、その上にはわら半紙と鉛筆、電気スタンド。十分な冷暖房設備もなく、夏は暑く、冬は寒いお部屋でした。

供丸斎先生は、ご自身のことには全く無欲でした。お召しになるのも、質素なもの。行事の際は、いつも決まった白衣と袴のみ。日常は、白い開襟シャツとズボン。冬場は、灰色のセーター。「使者は、ぜいたくは許されない。洗ってさえあれば、着たきりすずめでいいのだよ」と。ベルトは、擦り切れかけても使われました。靴も、底が薄くすり減るほど、長く履かれたもの。神に「シャツを買ってもよいでしょうか」と尋ねると、神は「なぜか」と問われます。「破れました」と申し上げれば、「繕えばよい」とのお返事。「ベルトを買ってもよいでしょうか」と尋ねれば、「そちはベルトを2本もするのか」と。神のご指導のまま、私利私欲なく、救世一筋の供丸斎先生でした。

人々を救うことのみを考えて

信者であろうと、なかろうと、供丸斎先生は誰であっても救いたいと、深い愛をかけられました。供丸斎先生がお出掛けの折、職員のために「すいかを買っていってやろう」「みんなの昼飯にコロッケを…」「がんもどきを…」と、車を止めては買い求められました。そうしたときには、「わしが買うと、神の運命でその店が繁盛するようになるから…」と、客の出入りの少ない店に立ち寄られたのです。

ご自身の持っている物は全てなげうち、教会のためにと尽くされました。神示教会がどれほど大きくなっても、「縁の下のごみ一つも、私のものではない。家族のものでもない。全て信者のもの、国家のものである」と。そのように清廉潔白で、心の内には人を救うことしかないお方だったのです。

神の教会は、神から真実、力を受けられ、そして人々を救い得る救世の運命を持つ者だけが後を継げると、常に断言されていた供丸斎先生。神の運命、神そのもののご存在である供丸姫先生が出現される時を、ひたすら待たれていました。

 神  示
使者供丸斎が 生きた時代を振り返り
           偲ぶ信者であれ
時代を受け止め
 強い信念(こころ)で生きた姿に
             共感できる
救世に「生きる」信念(こころ)が
          揺らぐことなく
 多くの信者を神へとつなぎ
 直使の存在を社会(よ)に知らしめた
    その功績は大きい
          忘れてはいけない

(令和6年10月1日 信者心の道勉強会『友輪』343号10ページ)