供丸斎先生が神と出会うまで

なぜ、神は供丸斎先生を「使者」として、神示教会を開かれたのでしょうか。それも全て、神の手の中で計らわれたことでした。

要領を使わない実直さに人気が

明治も終わりに近い頃、富山という実に穏やかな地に、供丸斎先生は誕生されました。富山平野を流れる常願寺川のほとり。静かで、清らかな、日本の原風景が広がる場所で成長されたのです。
後に、供丸斎先生は語られました。「神は、使者を世に出すに当たり、日本の裏側、汚れの少ない、欲のない、苦しいが食べるには事欠かない、そのような家に生まれさせたのである。それゆえに、学校にも満足には行っていない。勉学をすれば、我の強い人間になっていたからである。豊かな家に育てば、世の中を良くしようとは考えなかったからである。また、若い頃は病弱であった。病多ければ、病人の気持ちが分かるからである。そして、この人間を『大山命の使者』として世に出したのである

供丸斎先生は、15歳にも満たない時に、ご家族と別れ、東京の洋服店に奉公へ。そこで腕を磨き、22歳で独立されて軍服店を開業。仕立ての腕はもちろん、要領を使わない人柄が、店の評価をどんどん高めました。それは、ほんの少しの粗(あら)も正直に伝え、値を下げて納品するなど、実直な気質そのもの。そうした供丸斎先生の誠実さに人気が集まり、店は見る見るうちに大繁盛。靖国神社前の大きな店に成長し、東京に3軒、千葉に、横浜にと、支店、工場も次々と増えていきました。

多くの人々の役に立つように

世界大戦で焦土と化した日本。供丸斎先生も、全てをなくされました。この時に、「残された人生を平和のためにささげよう」と誓われたのです。
そして、戦後の混乱した社会で、多くの人々の役に立つことに着手。工場にするつもりで買い求めてあった横浜戸部の銭湯を再建し、生活に困った人々に開放されました。
この公衆浴場を「ぼたん湯」と名付けられた供丸斎先生。「人は、服を着ても、前を開けっ放しでは、外を歩けないだろう。必ずボタンが必要だよ。この風呂屋も、人々にとっては必要な物なのだ」と。

大山命の「使者」として

長年、喉の調子が良くなかった供丸斎先生。それがだんだんと悪化し、ついに咽喉がんと診断されて、「余命いくばくもない」と宣告されてしまいました。そして、耐え難い痛みにもだえ苦しんでいたある夜、それは美しく神々しい女神が目の前に。その女神は、「命が欲しくば、大山命にすがれ」と。この時初めて、供丸斎先生は「大山命」と神の御名(おんな)を聞かれ、気付くと苦しみが見事に消えて、命を救われていたのです。

時は同じく、昭和21年11月15日、神はこの世に、大山命の御魂が封じ込められた神の化身、直々の使者を、人の姿をもって誕生するように計らわれました。それが、後の供丸姫先生です。その真実が明かされるのは、まだまだ後のことでした。