心の底から感じる“しあわせ”

(横浜市MY/50代女性) 

「そもそも、『しあわせ』って何?」冒頭のこの言葉に、大きな衝撃を受けました。神の教えを学んでいても、自信を持って「しあわせ」と言い切れない私。なぜなら、心のどこかで、社会的評価や豪華な娯楽などに引かれていたからです。 

神の教えで心を広げる下地が 

『友輝27』は、読むたびに「本当にそうだ」とため息が出ます。例えば、「万物の霊長として頂点に立つのが人間なのは、なぜでしょう。…異なる力を持つ同士が調和するには、先頭に立ってリードする存在が必要です。そうした重要な使命を、人類は託されているのです」(43ページ)。こんな大きな考え方は、他では見たことがなく、神の教えの全てに、大きな視点、心の広さを感じ、自分の心も広く大きくなったような気がしました。 

我慢ではなく、妻としてのやりがい 

ある時、神殿で祈願していたら、ふと「夫の機嫌が悪い時も、笑顔でいるのが私の仕事」と思ったのです。夫は、普段は温厚ですが、疲れたり、忙しかったりすると、不機嫌になることがあります。それが嫌で、「疲れてるからって八つ当たりしないで」「前もってやっておかなかったからでしょう」と、責めてしまいます。 

言葉に出さなくても、悪くなる雰囲気。それって道を欠いている…。頭では分かっても心が受け入れず、「夫が悪いのに、何で私ばっかり我慢しなくちゃいけないの?」と思っていたのです。 

それが、『友輝27』を読んでいるうちに、我慢や損という感覚ではなく、これこそ「妻としての役割」と、誇りとやりがいが湧いてきたのです。それからは、夫の機嫌が悪くても、何の苦もなく、明るくいられるようになりました。 

そんな私に釣られて、夫もニヤニヤ。「僕といるのが楽しいの?」と冗談が出ます。今では、言いたいことを言っても、嫌な雰囲気になりません。 

毎日毎日、「何か分からないけど、すごいしあわせ」と感じています。周りからの評価も、娯楽も、「しあわせ」とは関係ない。還暦を目前にして、やっと分かりました。