「運命」という言葉。どんなときに使ったことがありますか?
「運命的な出会い」「運命のいたずら」「こうなる運命だったんだ」。
良いにしろ、悪いにしろ、どれもが「自分の力」ではどうにもならない、決して手出しのできないもの、というイメージ。自らの人生でありながら、あらがえない強大なものと感じます。だから古来、その「運」が「開」くようにと、人々が願い求めているのが「開運」です。開運の神様、開運のお守り、果ては財布や置物、おまんじゅうにまで至る開運グッズ…。誰しも、一度は目にしたことがあるでしょう。
それでは、「運命」って、ホントにあるのでしょうか? そして、「開運」とは何なのでしょう?
全ての人、物にある「命を運ぶ力」
八百萬(やおよろず)といわれる神々には、それぞれに“役割”があります。その中で、大山命は、「運命」を牛耳る神様です。「運命」とは、「命を運ぶ」と表すとおり、生ある今だからこそ発揮できる力。命が尽きるとともに、なくなってしまうものです。私たちは、誕生の時、肉体に神から「魂」を宿されます。その「魂」が、「運命」となって、人生を導くのです。それは、生命力とも言えるものです。
「生命力」には限りがある
例えば、発芽したばかりの朝顔。日ごとにどんどん伸びてゆき、やがて次々に花を咲かせる姿は、生命力に満ちています。仮に、つるを1本切り落としたとしても、元気でしょう。一方、踏まれて粉々になってしまった枯れ草には、そうした生命力は感じられないのでは? 神は、このように表されています。
神 示
この世で尊(とうと)きものは
「命(運命)」である
誕生と合わせ 神が与えし魂は
「運命」となって「命」が生まれる
(平成17年9月4日)
食事の際に口にする、「いただきます」という言葉には、「命を頂く」という意味があると言われます。採れたてのレタスは、新鮮で栄養もたっぷり。私たちはレタスの「命」からエネルギーを頂き、自らの「命」をつないでいるのです。しかし、冷蔵庫でしなびたレタスからは、あまり栄養を摂取できないでしょう。生命力が落ちているからです。生命力、すなわち「運命」の力は確かにあるものの、有限ということです。
「運命」を輝かせて「開運」を
「命」が終われば、「運命」もなくなってしまう。これは、植物、動物、人間…、全ての「命」に共通していることです。しかし、この「運命」は、世界中を探しても、同じものは二つとない、自分だけの「宝」です。だから、限りある一生をどう生きて、「自分の運命」の力をどう引き出していくかが重要なのです。そして、この力を存分に輝かせることで手にできるのが、「開運」です。
一般的にイメージするよりも、はるかに大きな「運命」の力。神の教えは、この生命力、「運命」の力の引き出し方を教えてくれるものです。詳しくは、今後をお楽しみに!