今生での一人一人の心を守るだけでなく、何度も生まれてくる魂までも救う、「真実の光(みち)」。その究極の救いを実現する上で核となる施設が、神総本部「真実の光(みち)会館」と、付帯施設である「偉光郷(ひかりのさと)」です。誰もが求める永遠の救い、魂の救いを実現するからこそ、故人・先祖も、今を生きる私たちの魂も、安心感に包まれる「御魂安置所(みたまあんちじょ)」と表されました。
人生の終焉(しゅうえん)も神示教会で
現代では、「お墓など不要」という人が急増。「樹木葬がよさそう」「散骨すればいい」と、安易に会話する姿も見られます。それは、「子供に面倒を掛けたくない」「跡継ぎがないから…」など、いろいろ事情があるのかもしれません。
しかし、五感で生きる人間は、「形」があることで、気持ちがしっかりと真実の救いへと向かうもの。納玉(納骨)施設で故人を感じるから、生き方を受け継ぐ決意も確かとなります。
親・先祖から子孫へと、自身の「心の道」が確かにつながることが、「真実の幸福」です。それをかなえるところに、自分の先々の行く末も、故人・先祖の魂をも、救うことになるのです。
神示教会に、まだ大神殿も、教育施設もない時代。供丸斎先生は、このように語られました。
「教会がお葬式もしてあげます。お骨も、教会で納めてあげます。心配は要りません。お墓に魂がいるのではないのです。骨や肉に魂がいるなら、肉や魚を食べて、おなかの中にどれだけの魂がいるのですか。そのようなことはありません。骨は骨、肉は肉、魂は魂です。魂というものは、その家の血統にいるのです。魂は、いつも家族を、『どうしているか』と見ているもの。だから、安心させることです。しかし、どうしても、納骨を心配するのが人間です。だから、教会で納骨は面倒を見ます。やがて教会専属の霊地を造ります。期待して、待っていてください」。
神の願われる神玉里と神玉園が
供丸斎先生が願われたこと、すなわち神の願いを、長い年月をかけて、供丸姫先生が実現させてくださいました。神総本部には「偉光郷」に「神玉里(しんぎょくのさと)」、各地の偉光会館には「神玉園(しんぎょくのその)」が誕生したのです。
また、神に礼を尽くすとともに、仏への礼も意識できるように、神総本部「光明殿」と対となる「安明殿」、偉光会館「光明の間」と対となる「安明の間」を創建。目には見えない魂を、確かに救うことができるのは神魂のみ。神魂を間に思いを語ると、故人・先祖の魂に伝わり、安心してもらえるのです。
故人・先祖へは、毎日朝夕、神魂を間に入れてご挨拶。加えて、「神玉祭(しんぎょくさい)」の期間には、家族そろって仕合せな姿を見せて安心感を。その様子を見て、先祖の魂もますます安らぎを覚えます。魂が安定し、次に生まれてくる時も早くなります。その時には、より実体が引き上げられて、もっと仕合せな人生が約束されます。そうしたまことの救いは、真実の神なればこそ得られるのです。
途切れることない永遠の救いを
誰もが願う永遠の救いを実現してくださったのが、供丸姫先生です。ある時、こう語られました。
「供丸姫には、いっぱい夢があるのです。そして、『ゆりかごから墓場まで』というのが、希望なのです。安心して生まれ、その時に神から名前を付けていただき、一生を約束されて、仕合せな人生を歩み、そして世を去る時も、御魂送りをして、安心して旅立てる教会にしたいのです。身寄りもなく、独りぼっちの人であっても、安心して人生を閉じていかれる教会にしたいのです。供丸姫には、夢がいっぱいあります。それを実現したいのです」。
世の中でもいわれる「ゆりかごから墓場まで」。しかし、供丸姫先生が願われるのは、それだけでなく、人生を終えた後、魂の世界に入ってからも、次に生まれ変わるまで、さらに次の人生もと、途切れることなく永遠に守られる姿。まことの救いの道を、神は供丸姫先生を通して開かれたのです。
どこまでも続く「心の道」。「永遠の救い」が得られるようになった今の神示教会。神魂のご守護がある場に、自身の遺骨、玉(ぎょく)を納められる仕合せは、何にも勝る安心感。神魂の救いは、自分だけでなく、子に、孫に、そして故人・先祖までも及びます。まことの救いが得られる今に、感謝するしかありません。
神 示
――人の正体は「魂」――
一言(いちごん)「真理」
悟り得たとき
人は「心(実体)」休まる
地(処)を求める
「玉(ぎょく)」を里に預け
神魂に「心(魂)」包まれて
人の心(姿)は安定する
「魂」は安らぎ
その家の「心の道」に
「生きる」姿(思い)が
つながってゆく
『真実の光・神示 平成23年版』159ページ