第7回 オリンピックに学ぶ「家庭の平和」

東京オリンピック大会の閉幕

8月8日、第32回オリンピック競技大会が幕を閉じました。200を超える国と地域、難民選手団、合計1万1000人の選手を迎え、掲げられた「多様性と調和」にふさわしい競技会でした。特に、政情不安から国外に逃れている選手たちが、国の支援を受けない状況で競技に参加し、オリンピックの本来の姿、また将来の在り方を示したのは、素晴らしいことでした。無観客での開催となりましたが、テレビで多くの人々が観戦できました。気温が高く、感染症の収まらない状況での運営となり、関係者の努力には敬意を表したいと思います。

 

オリンピック大会と平和の実現

オリンピックは、世界で最も大きなスポーツの祭典であるとともに、世界平和の実現を目指しています。戦争のない世界の実現がオリンピックの大きな目的であり、それは、競技の遂行と並ぶ、大切なものなのです。

そもそもオリンピックは、紀元前8世紀ごろ、古代ギリシャのオリンピアで行われていた競技会に由来します。争いが多かったであろう当時、武器による戦い、つまり戦争に代えて平和的なスポーツを競うことで人々の融和を図ることが目指されていました。武器を置いて、スポーツの技や体力を競うことは、まさに平和の営みだったことでしょう。闘争心の解消が図られ、戦乱の勃発が回避されたであろうことは、想像に難くありません。

古代オリンピックは、4年ごとに開催され、西暦393年、ローマ帝国により廃止されるまで、293回を数えたと言われています。その後、1500年の休眠期間を経て、19世紀末に、フランスのクーベルタン男爵によって復活されました。ギリシャの競技会が保有していた「平和への願い」を受け継ぎ、近代オリンピック大会として開催されることになったのです。

 

オリンピック委員会の役割

オリンピックを主催する国際オリンピック委員会は、平和の実現を世界に訴え、実践を呼び掛ける役割を担っています。国連は、委員会と協力し、「開会期間中は、戦争行為を中止する」ことを世界に呼び掛けました。

オリンピックが「平和の祭典」と呼ばれるのは、競技をもって戦闘に代えるという古代オリンピックの願いを継承するとともに、オリンピック委員会が世界に平和を呼び掛けるという重要な役割を遂行しているからと言えるでしょう。

 

個人の生活と「対立」

戦争が人類の脅威であることは、古代も今日も変わりはありません。実は、個人の生活の次元でも、同じような配慮を必要とする領域が存在します。それが、家庭です。国や民族と比較して、家庭の規模は極端に小さなものですが、構成しているのが人であることは共通しています。人が持つ性質は、人数に左右されない傾向があります。従って、国や民族の紛争と同様の対立が、夫婦、親子の間にも存在し、家出、別居、離婚などという重大な事態に至ることにもなるのです。国際関係と家族関係の間に大きな差異はなく、家庭問題の解決は、戦争と同じように、困難を極めます。

私は、弁護士となって50年ほどになり、家庭内のもめ事も、かなりの件数を扱ってきました。概して言えることは、「争いというものは、人と人との間が近いほど激しく、終結に時間がかかる」ということです。家庭で起きるものは、難事件が多く、その原因はただ一つ、「感情」です。

家庭裁判所で扱う事案は、当事者同士の話し合いを中心に、幾度となく調停を重ねても、「許せない」「耐えられない」「自分が一番不幸」「仕返しをしてやりたい」などと、互いの感情の吐露が繰り返され、結局、それだけで終わることも少なくないのです。

人の感情は、それが偉大な思想や素晴らしい芸術を生み出してきたことを思えば、一概に排除すべきものではありません。しかし、感情を自己の物質的利益や自尊心の充足、あるいは他者への加害に向けることは、人生を歩む方法として、正しいものではないでしょう。本当の仕合せを手にする心の在り方を神の教えでつかみ、治まらない感情を神に語って流していただく価値がここにあります。

世界という広い舞台でも、小さな私たちの家庭においても、争いがもたらすものに、満足や仕合せはなく、むなしさしかありません。オリンピックに学びながら、家庭で失敗しないように歩んでいきたいと願っています。

略歴
東京大学法学部卒業。同大学大学院修了。
平成15年から平成18年まで日本大学法学部法学部長、平成18年から平成19年まで同大学副総長を務める。著書『刑法総論』『刑法各論』ほか。

 

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