第5回 ネット社会と日常の判断

市民生活とSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)

ネット社会が一般的となった現代は、市民に情報交換サービスを安価に提供する事業者が存在します。高性能の情報システムを利用する私たちは、情報の受け手となる一方、発信者ともなっています。

個人レベルでの活発な情報交換が当たり前の社会状況は、日常生活全般に多くの変化をもたらしました。身近な情報が手軽に入手できることは、この上もなく便利です。日々、さまざまな事柄について判断することを繰り返している私たちに、SNSが自分と同じ立場にある無数の人々の意見を即座に教えてくれます。ネット社会における、情報活用の典型と言えるでしょう。

 

政治活動とSNS

一般市民に情報を伝えようとする立場、中でも政治家にとって、SNSは掛け替えのない伝達手段です。一瞬のうちに莫大(ばくだい)な人数へ直接自分の情報を届けられる方法は、他にはありません。現在は、その有効利用に関心が集中しています。

アメリカでは、今年1月の連邦議会議事堂襲撃事件に関して、フェイスブック社がトランプ前大統領に対し、投稿が暴力を扇動しているとして、サービスの利用を2年間停止しました。この例を見ても分かるように、ネット社会では、SNSから排除されることが政治活動に対する制裁となるほど、重要な機能を持つようになっているのです。

 

情報の氾濫と影響

SNSのような情報技術の普及は、どこの国でもわずかな期間で達成されました。その実態は、単なる技術の導入ではなく、より根本的な、社会それ自体の変革と言ってよいものです。徹底した情報社会、いわゆるネット社会の実現により、情報流通が極めて円滑に行われ、備蓄される情報量は膨大なものとなりました。百科事典のように完全に情報が集積された社会の中で、いわば情報が氾濫する状況下で、私たちは日常生活を営んでいるのです。

それでは、ネット社会に住む人々は、多彩な情報を活用し、優れた判断力を発揮しているのでしょうか。経験から言えば、そうはなっていないのです。情報が巨大で完全であるほど、そのことが人々を迷わせ、最終判断をためらわせ、結果的に判断それ自体を困難にしてしまうと推察されるのです。

日々の生活で直面するのは、「右・左」「敵・味方」「肯定・否定」などの「二者択一」の判断で、どちらが正しいと論証する必要もありません。例えば、天気予報を見る目的は、傘を持っていくか、いかないかを知りたいのであって、「降水確率40%」では、どちらにしようか、かえって迷ってしまい、判断を誤る可能性も高めます。

つまり、どちらか一つを選択できなければ、情報を得る意味がなく、広過ぎる範囲の情報が与えられることは、人々を迷わせ、混乱を来す結果ともなるのです。

 

ネット社会とあるべき判断

実は、日常生活で必要とされる判断の「二者択一」性と、ネット社会の普及とは、方向性が一致しているのです。SNSで長い議論が交わされることはなく、あるテーマに関する結論の照合が端的になされるところに、その特徴があります。判断の際も、重視されるのは推論や根拠の提示ではなく、結果そのものです。どちらも、時間を節約して、端的に「択一」の結論に到達することを指向しています。

しかし、私たちの毎日は、それほど簡単なものではありません。現代人は今、人類が何千年もの歳月をかけて築いてきた文化という地盤の上に立っています。現実そのものである文化は、SNSなどのように、結論だけを求める営みから生まれたものではないのです。現実生活での判断は、掛け替えのない人生の一こまであり、一つの判断が、私たちの一生を左右することもあるはずです。

従って、ネット社会で暮らす私たちは、いつでも正しい判断が下せるように、心を正しく持つことを、特に意識すべきです。そのためには、日頃神の教えを学んでいることが、大きな力となることを記憶にとどめておくべきと思います。

略歴
東京大学法学部卒業。同大学大学院修了。
平成15年から平成18年まで日本大学法学部法学部長、平成18年から平成19年まで同大学副総長を務める。著書『刑法総論』『刑法各論』ほか。

 

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